いわゆる童謡の隠されたエピソードを持つ歌という中で、必ずあげられるものに、
野口雨情の代表的な作品、「七つの子」「シャボン玉」「赤い靴」があります。
他の作家の作品に比べ、雨情の作品が色々な解釈をされるのには
大きな理由があります。
そのもっとも大きな要因の一つは、雨情が徹底的な省略の美学をつらぬいている
ことです。
和歌・俳句の時代から、徹底的な省略と、行間を読むことに
あわれを感じ、ワビ・サビを論じてきた日本の歌。
一時期、やたらと説明口調の多い曲が流行りましたが、
やはり、受け取る人それぞれで、さまざまな感慨を持てるものの中にこそ
名曲は生まれてくるのではないでしょうか。
雨情はその正統であるといえます。
さて、雨情の作品はその省略の技法と、更に、雨情自身が自分の作品の
ことを論じることが少なく、本人がどのように解釈してもらってもよい
というスタンスであったことから、今の様に、いろいろな説があちこちで
聞かれるようになりました。
ただ、私が気になるのは、その解釈の視点が、いずれも文学者的な
ところにあることで、作家・クリエータの立場に立つものではないことです。
雨情作品に限らず、これらのエピソードと称されるものの中には、詞のモチーフをどこそこから
とった、というものが多々あります。
このサイトにも、「ゆかりの歌」というページを設けていますが、作家の
正没の地はまぎれもない事実ですので、縁の地としてはこれを優先して
います。なぜなら、詞の題材を採ったというものの中には、悪く言うと「みやげもの屋」
的感覚で、単に、町おこし・村おこしのネタに使われたものにすぎないものも
あるからです。
和歌の世界である「〜にて詠む」のように、作者自身がはっきり指し示していたり、
明治時代の私小説のように、まったく個人的な経験を元に書き綴ったと
されているものを解釈するのなら、その詠まれた地のことを論じたり、作家の生い立ちを
探ったりするのは大切でしょう。そして、そうすることの大家が、文学者だとすると、これとまったく同じ手法で
作詞家の歌詞を解釈しようとしているのではないか?
これが私が日頃から感じている疑問点です。
中国の有名な故事に「推敲」があります。
「門を推す」がよいのか「門を敲(たた)く」が良いのか。
詩人が悩むべき所は実にここであって、実際に僧が門を押していたのか
叩いていたのかなどを論じているのではないことは勿論です。
日本の詞に関して、なぜかこの論点からの視点が欠けているものが多く、
藤田圭雄氏がこうした視点から、よく、詞を論じてるのは思うに、氏が詩人と
しての一面を持っていたことに多く帰するところだろうと思っています。
野口雨情は放浪の詩人では無く(放浪してますが(笑))、プロの作詞家である。
というのが、私が立つところです。
プロの作品は、私のようなディレクターを含めた第三者の視点も交えて、
作品を昇華していくものであろうし、また作家本人が第三者的な目で自分の
作品を眺めることも時に大切であろうと思っています。
これは、エンタテインメント視点であって、芸術家的な視点ではありませんが、
雨情は時に、編集者としての視点を色濃く持ち、また、歌ってもらってこその
詞であると考えていましたので、決して独善的に自分のカタルシスを垂れ流して
いたようには考えられません。
時にそういった視点からも、雨情の詞をみることも良いのではと思います。
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