・童謡唱歌の作家とその時代2

 ・大正期の代表作家
 官製の唱歌に対して、大正期に入り、民間から、新しい運動が起こります。
いわゆる「赤い鳥運動」がその始まりとされています。童謡・童話雑誌に関しては、また別の機会に ゆずるとして、ここでは、この時代活躍した作家について紹介します。

 童謡に先立って、まずは童話などの子供向けの読み物が、興隆するなど、この時代は、日露戦争後、 大正デモクラシーと言われるよう、少なくとも日本の近代史上では言論華やかし時代でした。 流行歌も生まれ、詩人や作曲家の活躍する場も広がっていたようです。  そんな中、雑誌「赤い鳥」に触発され、多くの詩人が童謡を書き始めます。  北原白秋(1885〜1942)、西條八十(1892〜1970)などです。彼等の詩に、今度は作曲家がこぞって曲を書き始めました。  しかし、童謡が多くの人々に認知されるには、雑誌「金の船」とその編集者兼任として招かれた野口雨情(1882〜1945)、 更には、雨情の詩に曲を付けた、本居長世(1885〜1945)の登場を待たねばなりません。

 後発の「金の船」は、今で言う一大イベントを仕掛けます。
 それが、童謡の全国公演でした。
 本居長世の愛嬢を歌い手に、雨情・長世作品を次々に全国で紹介して廻ったのです。
 それまでは、雑誌や出版された楽譜を、音楽の分かる人だけが、楽しんでいた童謡を、これにより、多くの人々が 実際にその曲を聞いて楽しむことができるようになったのです。長世の愛嬢の本居3姉妹は童謡歌手の走りと呼べます。  (この頃から、童謡のレコードも発売されはじめますが、まだまだ、一般の手の届くものではありませんでした。)

 文部省唱歌とは明らかに、その伝播経路が違っていました。
 これに対して、学校教育機関はいっせいに反発します。丁度、今の時代に、学習塾に対して、 学校側が反発することを重ねあわせられるのではと思います。

 そのため、この時代、童謡に接することのできた層は、思ったよりも多くなく、世代によっては意外と、 童謡よりも唱歌の方が、認知率が高く、懐かしさを覚えるのも唱歌のほうが多いようです。

 別表の様に、多くの童謡作家を輩出したこの時代ですが、一人、異彩を放つのが、葛原しげる(1886〜1961 葛は パソコン用の不正確な字)です。  童謡3大詩人は雨情・白秋・八十を称するのですが、当時、作品が多く歌われたのは、西條八十より葛原しげる でした。西條八十自身も、長い詩人生活のうちで、童謡作家として活動した期間は短く、本人の自伝からも、 童謡作家と捉えてほしくない節があります。では、なぜ葛原がこの中に入っていないのでしょうか。
 実は、葛原しげるは、童謡とは対極の立場にあったからです。
 他の作家が文学者として活動しているのに対し、葛原は明治期の作家と同じく、あくまでも教育者の立場として、 作詞活動を続けていました。「村まつり」が一般に文部省唱歌とされているように、(葛原の作品であるという 確証はみつかっていません。)葛原は、唱歌作家として登場しています。
 その後も、童謡はセンチメンタルに流れすぎると、教育者の視点をつらぬいています。

 一世を風靡した童謡ですが、年表を見る通り、この時期の童謡雑誌による隆盛期は10年にもみたないものでした。

この項続く。「・童謡唱歌の作家とその時代3」

 昭和戦前期の代表作家