明治維新のような大きな変革の時を迎えて社会のあらゆるものが斬新な姿に移り変わろうと
する際、そこに、いろいろな矛盾や試行錯誤が生じ、それがそのまま次の時代に影響を
及ぼすのは止むを得ないことだ。
明治五年、頒布された学制では、下等小学校の規定教科十五科目の中に「唱歌」が
入っている。下等小学校というのは六歳から九歳までである。「当分之を缺(か)く」という
註がついてはいたが、小学校では「唱歌」、中学校では「奏楽」が指示されていた。
この時、学制を定めた文部省は何を「唱歌」といい、何を「奏楽」といったのか、それは
はっきりしない。大体フランスの学制に倣(なら)って作られたもののようだ。
中学では「図画」があるのに小学ではなぜ「図画」はなくて「唱歌」があるのか。
江戸時代の儒教の六種の技芸(礼楽射御書数)に拠るものか、よくはわからない。
しかしそこにある「当分之を缺く」という註も、日本古来の雅楽や能楽や筝曲(そうきょく)
や三味線楽でなく、もっと広く、むしろ西洋音楽に的をしぼったもののようだ。京都に本拠
を置いていた伶人(雅楽の楽人)たちもどんどん東京に出て来て西洋音楽の勉強をしている。
こうした、好奇心旺盛というか、新しい物に飛びついて行く日本人の性格は、その当時
来日した外国人には驚異だったようだ。明治十三年三月、音楽取調掛の為に来日した
メーソンの許には、国文学者の鳥居忱(とりいまこと)をはじめ、伶人の奥好義(おくよしいさ)、
上眞行(うえさねみち)、辻則承(つじのりつぐ)等が次々と入門した。メーソンは、外国の
音楽が入って来ると、それに反対するのは、まず、その国の伝統音楽の楽人たちだが、雅楽の
中心の若い楽人たちが西洋音楽にこんなに興味を持ってくれるのはありがたい、と驚いている。
そして、メーソンと伊沢修二が中心となって、心をこめて作り上げたのが『小学唱歌初編』である。
この三十三曲の中、最初の音階の練習曲十二曲を別にすると、そのほとんどが、外国曲に
雅文調の歌詞をつけたものだ。
第一曲は「ドドド レレレ ドレドレ レレド」という二音歌に「かおれ、におえ、そのうのさくら」
という歌詞がついている。アクセントなども出鱈目だ。学制でいえば、下等小学校一年生
(六歳児)にうたわせる歌だのに、「かおれ、におえ」はまだいいとして、「園生の桜」などと
いうのはナンセンスだ。今日なら「さいた さいた チューリップの花が」とでもいうところだ。
この項つづく