一九一八年七月『赤い鳥』が創刊されました。主催の鈴木三重吉の熱意で、それは
日本ではじめての、文壇をあげての、子どもの為の真剣な文学運動として展開して
行きました。三重吉のイメージの中には、童謡だけでなく、子どもたちが楽しく
唱える歌への期待もありました。『童謡』という新鮮な呼び名で三重吉はそれを、
人気詩人の北原白秋と、新人の西条八十に注文しました。
白秋は、『新しい日本の童謡は根本を在来の日本の童謡に置く』と思い定め、
江戸以来のわらべうたの精神とリズムの現代化を考えました。それに対して八十は、
三重吉が頼んだ「芸術的唱歌」というのは、「詩であって、しかも子どもに興味深く
うたえる歌」だと思ったといっています。
そして、その翌年の十一月には「金の船」が創刊。そこで、白秋と八十とも違う、
民謡風の童謡の詩人の野口雨情が活躍。本居長世、中山晋平、山田耕筰その他、
これも一流の音楽家が協力して、華々しい大正時代の童謡運動が展開されました。
この、第一流の詩人たちと、第一線の音楽家の合作に成る魅力的な子どもの為の
歌曲「童謡」は、世界に比べるもののない素晴らしい芸術品として日本国中の
学校に家庭に職場に美しい花々を飾ってきました。しかし、昭和も歳が深まると
戦時色が濃くなり、それと同時に、レコード産業を中心とした卑俗な、娯楽本意の
童謡が横溢するようにもなりました。
そして戦後−総てが一掃された青空には再び、さわやかな「童謡」が春の綿雲のように
ぽっかりと浮かび漂いました。
赤い鳥時代の童謡の夢は、再び人々の心の中に蘇りました。JOAKのコール・サイン
は歌のおばさんの新しいメロディーの中に子どもたちを誘い込みました。
子どもたちだけではありません。童謡ということばのイメージには、子どもが
楽しくうたう歌であると共に、「おとなは、だれも、はじめは子どもだった」ということを
「忘れずにいる」そんな「おとなたち」にとっても、なつかしい、心あたたまる歌
なのです。先年「日本のうた ふるさとのうた 全国実行委員会」が、NHKを媒体にして
集めた六十五万人による、六十五万枚のハガキの五〇〇〇曲あまりの歌の中から選ばれた
ベストテンは、
赤蜻蛉 故郷 夕焼小焼 朧月夜
月の砂漠 みかんの花咲く丘
荒城の月 七つの子 春の小川
浜辺の歌 でした
家族一同が、肩を組み、手をつないで唱い楽しめる歌がそこにはあります。
この項つづく