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唱歌から童謡へ/藤田圭雄・その2

(童謡の風・創刊号:平成6年発行より掲載)

 第十七曲の「蝶々」は、伊沢修二が明治七年、愛知師範学校長だった時、フレーベルの 方法にしたがって唱歌を伴った遊戯を幼児に教えようと、その地方のわらべうたを、 愛知師範学校教員の野村秋足に命じて集めさせ、その中から選んで、それを補足して 唱歌にしたもので、その当時は「歌詞をば多少代へたが曲をば童謡其侭に採用し これに遊戯を加へて実行した」のだ、といっている。 それを後になってメーソンから「このメロディーは日本の子供の好に会ひそうだ」 といわれて改めてこの曲に野村の歌詞をあてはめてみたら大層うまくいって メーソンも大喜びだったということだ。 しかし、わらべうたの部分は大変うまく出来ているが「桜の花の栄ゆる御代に」 以下は、子どもの歌とはいえない。

 これに対して伊沢は、「茲に撰定する所のものは、通常の和歌に異り、楽器に 和して歌うべき歌曲なれば、其専旨とする所も亦、楽曲にありて歌詞は之に次ぐ ものとす」といっている。その上、明治政府は財政難で、音楽取調掛などは廃止 しようという説も出ていた。そんなことになっては大変だと、唱歌の歌詞に 明治十二年に発布された「教学大旨」の基本精神である「仁義礼智信」の心を 織り込み、また、西洋風のメロディーを日本のものにするのだから、なるべく 日本の伝統歌謡の「雅」の趣を重んじ、児童の理解力などはあまり顧慮されなかった。

 その反動が、明治三十年代の後半になって「言文一致唱歌」という姿で 出現した。明治三十三年の、納所弁次郎、田村虎蔵編の『幼年唱歌』『少年唱歌』、 三十四年の東くめ、滝廉太郎編の『幼稚園唱歌』は、口語体でよくわかるし、 内容も子どもの興味に応えるもので非常に好評だった。

 しかしそれは平易にしようとしたあまり、一足飛びに卑俗なものとなり、 その反動として、明治末から大正へかけての『文部省唱歌』を生み出す結果となり、 それが大正の童謡が生まれる基にもなっている。

 白秋は「小学唱歌歌詞批判」という小文の中で、
  ワタシノガクカウヨイガクカウヨ
  ケウジャウヒロイ ニハヒロイ
  カケヅヤ ゴホンヤ イロイロナ
  メーズラシイモノ タクサンアッテ

という歌をあげ、こんな型にはまった、糊付細工の人形のような歌をうたわされている 子どもは本当に可哀相だといっている。
 また、西条八十は、「もしもし亀よ亀さんよ」という「兎と亀」の唱歌をあげ、 こんな歌は、詩人が書きたくて書いたものでなく、子どもに媚び、奴隷の心境で 書いたものだといっている。

 そして、こうした情勢の中で、新しい時代に生きる子どもたちに、本物の、 美しい、楽しい詩を贈り物にしようという、力強い意欲が白秋、八十という 一流の詩人の中に萌え立ったのが、大正期の童謡運動だった。

 白秋は、『赤い鳥』で童謡運動をはじめるにあたり、「新しい日本の童謡は根本を 在来の日本の童謡に置く」といって、明治期を飛び越え、各地に伝わるわらべうたの 調子と精神を基にして童謡を作ろうとした。それに対して八十は、フランスの 象徴詩の趣によって新しい子どもの歌を作っている。

 そして、西洋音楽の流れの中に浮かび漂った明治唱歌が、山田耕筰、本居長世という 新しい力と合流して、世界に類少ない「童謡」という、詩だけでもない、音楽だけ でもない、また、子どもだけのものでもない、素晴らしい魅力を持った歌曲として そこに生まれたのである。